六角鬼丈さんの自邸「クレバスの家」の取材に出かけた。
なんでも、六角さんが25,6のときに設計したものだそう。

六角邸のエントランスは一見、意外なくらいフレンドリーでかわいらしい。
しかしこれは母屋のもので、「クレバスの家」はエントランスの門をくぐって
そこから母屋の脇を進み、裏庭みたいな、モッサリした場所にある。
外観は、ほとんど掘建て小屋である。
モルタルかなんかを吹き付けてあるが、これは竣工後に手を加えたもので
元々は杉板だったらしい。
青いペンキがはげ落ち、雨風に晒された入り口のドアから
改装前の状態を察することができる。


 
 ここらで肝心の内部の様子など書いていたのですが、
 なんか原稿書いてたら、かなり内容がかぶってきたので
 出版されるまで一旦、伏せますです。後で復帰させますが
 今回の取材による記事は「ミセス(文化出版局)」の6月号に
 掲載されるので、よかったらこちらを是非、ご一読ください。
 じゃ、続きをどーぞ↓猫



***

取材後、母屋にて六角さんにもお時間を頂き、奥様にコーヒーをいれて頂き、
しばし談笑させて頂いた。ゆったりと、おだやかな時間だった。
どこの家族にもあるように、六角家にもいろいろ紆余曲折あるのだろうが、
ここにはここのしあわせが確かにある、ということが、お邪魔した私にも分かる。

六角さんとお目にかかるのは初めてだが、鬼丈と自ら名乗るくらいだし、
数々の作品のイメージからしても、どんだけおっかない方かと思っていた。
畏怖の念が消えたわけでは決してないが、自分の中での六角さんが、
ただ「おっかない」というイメージから、少しだけ具体化した気がする。
何しろ私は、六角さんについて知らな過ぎた。それは反省すべきかも知れないが
今、自分の目で直接確かめられることが、とても有り難かった。

具体化、というかほぼ推察や妄想の類だが、六角さんがなぜ鬼丈と
名乗ったかということが、以前からとても気になっていて、今回
直接伺わなかったが、自邸を拝見し、美瑠さんに取材させて頂いたことで、
私なりに仮説を考えた。

それは、神々しさをつくる、ということに対しての決意だったのではないだろうか。
神々しさをヒトの手でつくるなんて、おこがましい。
しかしその聖域に自ら手をかけるのだ、という自覚と覚悟として、
おこがましさを忘れない自戒として、また、おこがましさとつくること、
ひいてはヒトと神々しさとの狭間に一生身を埋める決心として、
それまでの人間界の名を自ら塗り替えた、いわば洗礼だったのではないだろうか。
(以上あくまで仮説)

人間とか神とかいっても、別に固定的な宗教、宗派という意味でなく。
先に書いた通り、神様なんて信じていなくても、空間の神々しさは本能的に感じ取れる。
(ということが、「クレバスの家」体験で、よーくわかったのだ)
そしてそれは、ヒトにとって救いとなり、支えとなり、心に刻まれる。
建物として、以上の「魅力」ないし「能力」があるということが、建築ではないだろうか。
(ということが、美瑠さんのお話から、よーくわかったのだ)

深い闇、そこに射し込む一筋の光、六角さんの謎、
美しい美瑠さんと明るい奥様、母屋での穏やかなひととき。
「映画のように」印象深い場面や人物に、あの裏庭の小さな建築を介して
お目にかかることができたわけだから、なんて素敵な「リアル」なのだろう。
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