今和次郎「採取講義」この週末でラストだが、間に合う方はぜひ見に行って欲しい。つうか自分がもう一回行きたいよ!

会場に入ると和次郎のスマイルがお出迎えしてくれる。この人は笑顔であるだろう、と思っていた。その通りだった。うれしかった。

つぶさなスケッチ、つぶさなテキスト。農村から都市まで、そこでの生活一切合切を採取しまくった和次郎。会場には、そもそも本でじっくり読んでいく方が向いている資料がてんこ盛りである。「おお、これはあのあれか!」と生スケッチ生テキストに興奮する玄人さんももちろん大喜びだろうが、しかし和次郎初心者の琴線にも、ビシバシくる展示となっている。ヤヴァい。

和次郎の観察と記録には、人間同士としての、未知の扉を開かんとする者の、実に謙虚で素朴な視線がある。和次郎に「わかりきっていること」なんて、何もないのだ。その凄みといったら!ハアハア!

だからいつも、驚きや喜びに溢れていて、心が躍っていて。そんな和次郎の姿勢が、事実を淡々と連ねたスケッチとテキストに、ぎっしり詰まっている。観察の記録とはリアリストによる唯物的なもののように感じられるが、和次郎の記録をひとつひとつ目で追うと、その瑞々しさ、その息吹にドキドキして、不思議と涙があふれてくる。この感動って、一体何なんだ。

戦後のバラックをインテリのポエムみたいに「一種の美」だなんて片付けない。戦後、和次郎は復興の様子を記録し続けると共に「バラック装飾社」なるものを立ち上げ、バラックにダダな絵を描いては、批判されたり喜ばれたりした。

(私の推測では、和次郎は、廃墟も鑑賞物としてよしとは、しなかったのではないだろうか。和次郎は建築家の職能でもって、今を、今あるものだけで、いきいきと生きるためにはどうしたらよいか、探し続けたのではないだろうか。だから小屋のような「働く家屋」にも真摯に着目した)

他にも、庶民の服装から銀座を行き交う人々、茶碗の割れ方から蟻の歩き方まで、何がどう体系づくともわからない一切合切を、和次郎はひたすらに記録し続けた。

学者やなんかが、ただ田舎かどっかのものを「美しい」とかなんとか、物見遊山的にいうオリエンタリズムとは、確実に一線を画している。えらくなるための学問でもないし、ていうか学問と呼ばれるものへと昇華するかどうかも怪しいことまで記録し続けていたわけで、和次郎の残した一切合切の記録には、なんというか、生きるという現実への、強い愛が溢れている。

私はこれほどまでに、生きることそのものを愛せるだろうか。さっき産まれた赤子のように。「採取講義」には、そんな奇跡が詰まっていた。

モッサリしがちな和次郎展に対して、カタログは菊地敦己さんによるポップなデザイン。図版も多く、楽しい出来になっている。(しかし展示品の脇についていた本の抜粋などは収録されていない。残念!主に「日本の民家」「モデルノロヂオ」から抜粋されていたと記憶してるんですが、どうでしょ)

蛇足ですが。会場内の関連図書には、我らが「けんちく体操」が置かれている。なぜ!?と思われただろうが…当たり前のようなものを今一度観察して、発見に喜び、愛をもってアウトプットする…畏れ多くも、和次郎とのそんな小さな共通項を、担当者の方が鋭く見いだしてくださったのではないだろうか。大変光栄です、本当にありがとうございました!

たなかもとこ

http://panasonic.co.jp/es/museum/exhibition/12/120114/
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